昭和四十五年一月二十二日   朝の御理解

御理解第二節
「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すれば誰でも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。」


 誰でも受けることができると言う事は、えー、人間氏子の本質というかね、それは神の氏子としての、おー、値打ちを皆が持っておるからと言う意味だと思います。言うなら、人間は万物の、おー、霊長としての、おー、お蔭の頂けれる資格を持っているからだと思います。ですから、それを、その資格をね、えー、誰でもおかげが受けられる、誰でもそういう資格を持っておる訳です。そういうもんだと思いますね。その証拠に、ならお道の信心をさせて頂いておる沢山のひとがありますけれども、あー、ならあれが御神徳だろうかと言うものを本当に受けておると言う人はごく(うまれでございます?)けどもその自覚に立つ事。ね、神の氏子としての自覚と、人間は万物の霊長としての、おー、値打ちを備えておるから、その霊長としての値打ちを、おー、値打ち足らしなると、ね。そこに、誰でもそういう、あー、その気になれば、あー、いうなら神信心一体と言う事をよく申しますが、信心一体。ね、本質なる神と、私どもの本質というものが一つになれれる、信、んー、信心一体になれれるものを人間は備えておると言う事だと思うんです。だからそのん所が、ね、人間は誰でもです、誰でも信心をすればおかげを受けられると、御神徳が受けられるとおっしゃるのはその事です。(たかが?)信心する者は、そのー、おー、信心しておかげを受けると言う事は、それは誰でも受けられる。それは、あー、そういう自覚に立たなくても、ただ信心しておればおかげは受けられる。ね、お繰り合わせを頂いたとか、病気が治ったとか言うようなおかげを受けられるけれども、そういうお蔭は、あー、(とーでいう?)あ、神徳が信心をすれば、誰でも受けられると言う御神徳にはつながらない訳ですね。えー、神は我が本体の親子と言う。私共の命の源泉。ね、いわいる源です。それが、天地金乃神様なの。同時に、いー、真理の源。ね、それを生神金光大神が、ね、おかげを受けられた事を、限りなくお蔭の受けられる話を残しておくとおっしゃる。その話が、言わば真理なのです。本当の事なのです。そう言う、んなら源はどこかと言うと天地金乃神天地にある。(命もしかれて?)私共の命の原石。真理の源である。ん、同じ所から出てるんです。ですからどうしても、その、おー、私どもは、話を聞かなければいけない、話を聞いて助かるとおっしゃるが、話を聞かなければいけない、本当な事を分らなけばいけない。いわいる、んー、本心に立ち返るって言っておる事申しますよね。えー、教え、たいこう(とのじゅうだんを・・・?)ぐらちないでしょうかね。「明智みちひで?」の、おー、お芝居なんです。「つまみいさお?」が申します。ね、どうぞ、本心に立ち返るとたった一言、言うてくれていうような事申します。本心に立ち返ると言う事、どういう事かと。ん、私は、そういう事だと思うんです、本心に立ち返ると言う事はですね。信心一体になれれる、心だとこういう本心とは。教祖もそこん所を、本心の玉と言う風に言っておられます、ね。ですから、どうしてもですね、ここではおかげを受けると言う事ではねくて、お徳を受けるという事を、な、こりゃ、私昨日一日誤用させて頂いてですね、もう本当にその事だけ神様は、こんなに見やすう見やすう教えておられるかと思うと、ようこう頂いておるとそれは、お徳を頂くにちょうせい頂います。それほど、んー、まあー、寒修行にお参りが出来なかったからとか、またたまに、とにかく参って来る、寒修行がありよる事げな知らんで参ってくる人達に対してもやっぱり、今の、命の源泉とか、信心の源と言ったような事ば、今日昼頂いた人、方達頂いたんですよ。いわいる、その、教祖の御理解頂きにし、そして頂いていたらです、誰でも頂けるという事を頂いてです、誰でも受けられるやはり、その資格と言うか、あっ資格と言うか、そういう、物を持っておる。いやー人間は。ですからどうしてもですね、その、おー、自分の命そのものがですね、信心を求めなければだめなのです。いわいる、本当に和賀心が神に向かわなければだめなのです。(はやだ?)だけではいけん。口だけではいけん。体が例えば教会に有ってもです、心が向いておらなければ、何もならんとです。どんなに例えば、あー、素晴らしい相談相手があると言うてもです、なるほど、それは道理の上にたった話しであれば、一応が(げんがいく?)のですけれども、えー、これは、決して本当な事は出てこないです。まあ言うなら、人に求めたり、人に相談したり、で、先生どものはいかにも、話し合いが、相談相手が出来るようであっても、そこから出て来る答えというのは、実に寂しいものである。そういう物しか人間は、そういう物しか持たないのです。けどもどれが、再び心が神に向こうてから、いわいる、心が御取り次ぎを頂く気になり、心が受けるという事になって来るとです、ん、言うなら間違えのないもの、と言うか、不動のものと言うか。いうようなものが頂ける。私共が、あー御かげを受けると言う意味合いに置いてなら、それは、あー、話しを聞かなくても、おー、(よろく?)本心に立ち返るなんて言ったような難しい事言わなくても良いでしょうけれども、もう絶対にですね、この本心に立ち返なければ、その、おー、命の源泉である神様と一緒になれない訳です。本心に立ち返らないと。本心に立ち返るという事は、傾きを正し、ね、(選ろ向き?)を正していく事。そこから、不動が生まれると。不動、不動。その不動のもの、それが、安心であり、それが、(こいしん?)なる訳なんです。本心に立ち返ると言う事は、傾きを正す、正していく。(選ろ向き?)を正していく。いわいる、足元がふらふらしておったんではです、ね、それは不動とは言えません。よろよろしとるとです。その不動が、傘一本につながるのである。その不動が安心につながる。そこから、いわいる、傘一本で開ける道と、ことにもなるんです。私どもは、本心を大事にすると言う事は、信心すれば誰でも御陰が受けることが出来る。しかも、限りなく受けると言う事がないとおっしゃる。そういうおかげを頂く為に、私どもはいよいよ本心を大事にしていかなけねば。いわいる、本心に立ち返ろう、本心に立ち返ろう、という心。それが、和賀心が神に向うのであります。ん、本来その本心と言うものと、おー、神様の心と、私どもの本心というものは、あー、一体のものなん。一つのもの。その、おー、いわる、命の、おー、生命のね、いわる、んー、源泉、に触れる事が出来ますから、限りない御恵みがそこから出て来てくるというのが、お道の信心によって徳を受けて、おかげを受けていくと言う人の姿、そういうおかげの受けれれる、う、本質的なものを人間は皆持っておるんだと。だから、皆信心すれば、誰でもおかげが受けられると言う事になる。ね、ただお蔭だけを頂いていくと良いのではなくてね、本心に立ち返ると言う事の、為の信心が成されなかったらお徳が受けられないと言う事が分かります。今日は、えー、おかげを受けると言う事が、な、あー、氷、氷の様な物であるならで、やはり、んー、本心に立ち返って、また本心に立ち返る事の修行と。と言う事は、事に精進すると言う事は、それはね、お、おろしと氷ほど違うと言う意味の事を頂きます。ただお蔭を頂いて帰って、自分達がいつにいっちょおると言う信心からね、例えば、おろしを、おろし売りを、いた、受けて、おろしねで買うて帰って、それを人にまた売ってあげれれると言うか、そこに初めて、今年のし、この信心であるお役に立つと言う事になるのです。ね、世のお役に立つと言う、と言う事は、私共がどうしても、ね、ただ形の上においての、おー、まあ、お役に立つと言ったような事は、様々な、あー角度から(本当に?)夜の事が言えると思うんですけれども、本当の、言わば世のお役に立つと言う事はね、これは、私があの二、三日あの前からあの、(いどうろぎ?)と言うあの事を頂いてから何かそういう事に、えーこう、んー、付いて頂くんですよ。もう本当にあの世の中、言わば天が国家の本当の範囲で言う世界総氏子と言うんかね、総氏子の身の上安全とか、助かりと、いうような事を願わせて頂くんですけれどもね、そのー、これは、なん、どうでもですね、やはりこの、本当の意味においての、精神革命がなされなきゃならない。ん、精神革命がなされなければね、世界の平和は絶対望めない。どんなに科学が進歩してもね、どれだけ素晴らしい物が出来ても、精神の革命が成されない限り人間の、人のような幸せっと言うのは生まれてこない。それには、どうしても私共がですね、まずお蔭を頂いてと小売り的な言わば、あー、おかげを受けるのじゃなくてです、おろし売り的なおかげを受けなければです、人に売って差し上げられない。ん、自分の周囲に本当に精神革命と言ったような事に目覚める人達が出て来るような、お蔭を頂くためにはまず私自身が精神革命をなさなければならない。いわいる、それは、本心に立ち返ると言う事。人間本来の、おー、姿に立ち返る。「神は我が本体の親である」という、ね、自覚と言うものがです、ね、本心に立ち返ろうとする修行からです、なるほど、私共の命が源泉で終わりになるな、天地金乃神様というお方は命の大元であるなという事を分からせてもらう。ん、そのような、お蔭ごつな、お蔭が、あ、つながって、私共とつながってくると言う事は、例えてもうしますと、昨日夕方から(?)体がよごよごしてから、あー、こらいよいよ私も風邪をひいたなーとか思うて、(かなか?)背中を走るようにとこう、冷たいものをかん、感じる。ん、それでも最近頂いておるように、こちらが頂く心になっとるから、二定則する時に、神様頂きますという心あらば触わる事無しとおっしゃるのだから、これを私が頂いて、それを頂く時、神様頂きますという心あらば触わる事無い、おかげだけは頂けると、こう、お、そういう確信な様な物を持っていると。ところがまた明日の事の御用がござる、昨日は、昨夜は、あー、(?)先生が風邪ひかれましたなーというように声がかれてしもうとった、昨夜私が御理解を解く時には、そこに勿論神様にお願いをする。お願いをすると言う事だけではなくて、もう非常にもう綿密にですね、和賀心が神様に向う、いわいる、本心に立ち返ることを寝るが寝るまで思い続けて休ませて頂いた。神様の心にそうわない様な事があっちゃならないと、じゃその心に沿う事に、いわいる、本心に立ち帰る事に一生懸命心して休ませて頂、今朝はとっても気持ちがいい。よごよごも無い。何故かと言うと、ね、命の源泉なんですから神様は。ん、神様の心になろうというか、あ、本心に立ち返ろうとする願いが、しかも綿密にです、成されていく時にです、今日はもう頭が重うして上がらんて言う、普通で言うならば、こう(ぜんじょかい?)言うなら。けれども、昨夜は確かに声が嗄れておった。背中はとにかく、こうっとこう冷たい物が走るようにあった。ね、金光様のご信心で頂くお蔭って言うのはそれです。本気で改まって願う時、しかもそれが綿密にです。ね、神様にこころが向っていく時、そこからお蔭が流れて来る。それが信心なんです。それを、金光大神はあらいる角度から、天地金乃神から受けられた、おかげを受けられた話しを残しておいて下さった。その事を、私共が行じて行くと言う事がです、ね、いわいる、おかげを受けると言う事ではなくて、お徳と受けると言うことにつながっていくのです。信心すれば誰でもおかげが受けられると、ね、な、信心しよるなら誰でもお徳が受けられる、そこだけ簡単に頂いちゃつまらん。信心すればお徳を受けられる基を皆が備えておると言う事。信心一体、神と一体になれれる、ん、それにはです、その、その源になる本当な事を分からせてもろうて、そこから、ね、命の源泉である天地の神と、おー、交流と言うか、つながりを頂いていく。そこから流れて来るものがお徳。そのお徳を、につながって頂けるものが限りないお蔭が。例えたまが、神は我が本体の親であると、命の源泉であると、例えばね、いくらきましてもです、それを私共がなるほど源泉だな、神様だな、天地金乃神様だなと言う、その実感というものをやはり頂いていかねば。それには私共が、その源泉から流れて来る真理。その源から流れて来る所のお話というものをよく頂かなければならん。ね、そのお話を頂いて、その事に取り組ませて頂くと言う事が、本心に立ち返ろうとするものでありますから、そこからおかげが受けられる、おかげを受けて見て、なるほど親神様だなー、命のおみたも、源であるなーと言う事が体験をとうして分かってくる。ね、お取り次ぎを頂いて、お願いをすると言う事はです、私はそう言う様な所を取り次いで頂くと言う事。御取り次ぎを願って、取り次ぎを頂くと言う事は、頂いて帰ると言う所はそこ。いわいる、本当な事を頂いて帰る。だから、本当な事を行じて行くと言う生活態度っというのが生まれて来る。私共が今年は本気で一つ世のお役に立ちたい、という祈りを、願っ、こめておる。それにはね、ただ私がお蔭を頂いたと言うだけでは、それは本当の、本当のお役には立たん。言わば、小売りを、小売りの、小売りで物を買うてきた様な物です。ね、小売りで人に分けてあげよったのんじゃ、そういう事ありますか。ね、働きぞん、いっちょんもうからん。そこで私共は、おろしで買うておいて、それを分けてやる。そこにわです、ね、分けてあげた人も助かりゃ、こちらも助かる道がある。世のお役に立たせて頂くと言う事はね、自分自身がいよいよ大きく、お蔭を頂くと言う事なのですよ、本当の事は。それが、小売りで買うていっとったものどん分けてあげよったっちゃ、それは、おかげが受けられん。ね、おろしで買うて帰らなきゃならん。それには、行。
今日御神前でね、えー、あの、「御」という字の(おんとしたまたかく?)「御」という字を頂くんですよ。行人偏に卸という字が書いちゃるでしょう。今日はその事に、を皆に聞いてもらおうというお知らせを頂いて開かせて頂いたら、御理解二節であった。信心すれば誰でも受けられるという御神徳。そういった、そう、それは、あー、そうだけれども、おー、今日の御理解頂かれて、なるほど卸と小売りと言う事の、事が分かるでしょう。しかもその、誰でも受けられる御神徳という、受けられる、ね、一つの素質というものをですをです、本質的に私共は持っておると言う。だから、その本質が本質、んー、たがしめて行くという、ね。それは、私共がその本心にですね、私共が神様と同じもの、ね、その同じものを、を同じものとしていく精進が本心に立ち返るという事だと言うように、それには、私共の生き方をたがしていかなければいかぬ。ね、(よよにき?)をいよいよたがしていかなん、(よるめきをただす?)そこから不動が生まれると言う。私は始めの頃何か分からなかった、その事は、頂いて。けれどもなるほどよろめいていおると言う時には、不動はないもんね。不動じゃないでしょうが。よるめく、よろめきがそこに止まるから不同なもんなって来るんですよ。ね、その不動が安心につながるのです。ね、その安心がいわいる傘一本でと言われる、傘一本なのです。ね、傘一本で開ける道と言うのはその事なんです。そう言う、私は、頂き方をここではしていく事がです、ね、卸し売りの値段で、商品を仕入れていきよるようなものだと、だから、それを伝える所に、伝えを受けた者も助かる、伝えた者もいくらかの口銭が残っとると言う事なの、まあ商売人の生き方で言うとたい、こちらは儲かろうと思うとらんでも、そこには自他共に助かる道があるという事。だからこそ世のお役に立てるのです。ね、世のお役に立つ、世のお役に立ちたい、世のお役に立ちたいと言う念願をですね、この御理解二節、誰でも受けられるという御神徳をです本気で私どもが受けさせて頂こうと、ね、そこから、いわいる本心に立ち返ろうと(ねわざまらして?)もらうお蔭をこうむって行かなきゃなりません。人に頼ったり、ものに頼ったり、そこから生まれてくる答えはもう必ず、もう必ずそん時はすば、い素晴らしい用であっても、必ずそれは悲しい物になる。いわいる、がっかりしなければならない。けれども神様を相手にして者。神様に御相談を申し上げ、神様のお指図を受けていく者は、もうこれは絶対のお蔭、いわいる、それは御徳になる。ね、そう言う様な事を一つ分からせてもらえる、ぇんー、思い込ませて頂くと言う事、そこからいよいよ不同なものが(いったちでく?)いわいる、一にも神様、二にも神様、三にも神様と言う事に成って来るのです。先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心すれば誰でも受けることが出来る。うけると言う事が無い。これを信心すれば誰でもお蔭が受けられる、と言うような、あ、風にここを皆さんが頂いておりますもんね。だから、簡単にそう御かげを受けられるとこう(その、はしったしっか?)はっきりと神徳じゃとこうおっしゃる。ね、その神徳は誰でも受けられる、神徳を受けられる、それを持っておる。だから、そこにはやはり本心にいよいよ立ち返ろうとする、んー、精進しなければ徳は、例え誰でも受けられるとおっしゃっても、誰でも受けられないと言う事を、が分かりますよね。私共はどうしてもその御神徳を頂かせてもろうて、いよいよ世のお役に立たせて頂かにゃならんと思うですね。どうぞ。